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【長崎市とロシアの関係】江戸時代から続くウラジオストクと長崎市の関係

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ロシアと日本の関係が悪化しています。
今年の原爆記念日にロシアを招待しなかったことで、
ロシアとの間にますます亀裂が入っています。
ロシアを招待しなかったのは,日本政府の圧力によるもののようですが、
ロシアと長崎市は江戸時代から交流がありました。
長年築いてきたロシアと長崎市の関係が壊れるのは残念なことです。

2/3🇷🇺M.Y.#ガルージン 駐日ロシア大使:

🗨️「また、19世紀後半に、貿易や文化の分野での接触を含む日露関係の確立に重要な役割を果たした、長崎を中心とする日露関係史におけるポジティブな1ページも、市当局は軽視していることがうかがえます。」

🗨️「地元の活動家や🇷🇺在日ロシア公館によって丁寧に整えられた、市内に残る数十基の同胞の墓が、今もそれを物語っています。
残念です」

 

 

長崎市にあるロシア人墓地

 

ロシア人墓地(長崎市曙町悟真寺)

🔶1858年(江戸時代)設置
🔶病死した船員を葬るため
🔶ロシア正教の白いチャペルと
独特の十字架が掲げられた多くの墓碑がロシアとの交流の歴史を物語っている

 

長崎市とロシアの関係

半世紀に渡るロシアとの親密関係

・冬期の長崎港はウラジオストックを母港とするロシア極東艦隊の越冬地となっていた
・港を隔てた漁村の稲佐をロシアの上陸地に指定
・はじめは寺院などが臨時の宿泊所となっていたが、しだいに受け入れ場所が増えていった
・極東に不凍港を求めるロシア艦隊の「稲佐ロシア人休息地」、通称「ロシアマタロス休憩所」となった。
・乗組員は稲佐で休息をとり、艦隊は物資を補給。
・稲佐悟真寺国際墓地の南側には、ロシア兵の射的場もでき、
これは明治36年頃まで続いた。

・明治前半の稲佐では、小さな子どもさえ片言のロシア語を話していた
・稲佐では、ロシア文字の看板を掲げたロシア人向けの店が珍しくなかった
・その一軒が、諸岡マツの経営するロシア人相手のホテル・レストランの料亭「ボルガ」。建てられた場所は、「志賀の波止場」だ。

・日露戦争までの半世紀の間、稲佐エリアは遠くロシアの地まで知れ渡るほどの「ロシア人休息地」として賑わいをみせた、ロシアととても深い関わりを持つ町だった。

・明治24年(1891)、ロシア皇太子ニコラス二世(のちの皇帝)がギリシア親王ジョージとともに極東訪問の途中、艦隊を率いて8日間、長崎に立ち寄った。
22歳の若い皇太子はお忍びで上陸し、上野彦馬に写真を撮らせたり、街角で出会った少女にかんざしを買ってやったりと、愉快な数日を過ごしたという

≫半世紀に渡るロシアとの親密関係

 

ウラジオストクってどんな町?

ウラジオストクは金角湾を望むロシアの主要な港湾都市で、
中国と北朝鮮との国境近くに位置します。
ウラジオストクとモスクワを 7 日間で結ぶシベリア鉄道の終着駅として知られています。

日本に一番近いヨーロッパと言われています。
日本海をはさんですぐ隣ですものね。

2年前は、ロシアの取材を普通にされていたんですね。

今のテレ東BIZのロシア関係報道、ひどいものですけど
いったい何があったんでしょう?

 

まとめ

ロシアという国は、自然がとても豊かできれいな国ですね。
こんなに日本と近いのに、ロシアのことを殆ど知りませんでした。

国と国の関係も、人と人の関係も平和が一番ですけど、
ちょっとしたことで、その関係が簡単に壊れてしまうこともあるのですね。
北方領土問題にしても、今まで時間をかけて積み上げてきたものが
政治のあり方次第で、簡単にひび割れてしまうものだということを知りました。
早くウクライナ問題が解決して、再び平和が訪れることを祈ります。